さくらは、西行の桜か、石部の桜か、ある山桜か・・・。古に倣して桜を眺め 

    自らの過去・現在・未来の生への執着・悔恨・不情理・謝罪・希望・理想を記して      

    この生の証しとする。
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菜の花畑の向こうの月
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      蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」という句の風景にあえないものかと思っていた。

     以前もそんなことを言っていたが、まだ実現としていない。

     

     私の所のような関東の山あいでは無理で、もう少し早めに南の方へ探しに行けばよかった。西も東も、地平線が見えるような平らな土地なら菜の花畑があって、3月半ばから咲いているだろう。

     山村暮鳥の「風景」の〈いちめんの菜の花 いちめんの菜の花 ・・・〉のような光景が浮かぶ。

     

     蕪村も、広々として菜の花越しに眺めたのではなく、摩耶山から見下ろす菜の花畑と、同時に昇る月と沈む太陽を見たらしい。

     

     こういう光景の画像はない。手で描いても伝わるが、なかなかそれは叶わない。次の画像に出合った。時間帯だけで、月も太陽もない。

     

     

           

     

     

     右側が西だろう、手前の菜の花畑に、沈もうとしている太陽の光が差している。

     この時、東に月が昇ってくる。

          

     

     では、いつ頃だったのか。

     安永三年の三月二十三日に詠まれた句だとされている。

     (グレゴリオ暦なら1774年5月3日)
     やはり、この句は眼前の風景を詠んだものではないということだ。
           ◇
           ◇
     現代の私たちにとって旧暦の日付そのものが、おおよそ月齢を表しているから明らかだ。
     この歌が詠まれた当時の暦での三月二十三日は、下弦の半月だったろう。まさにこの時間帯には、「月は東に日は西に」とは不合理だ。
           ◇
           ◇
      「月は東に日は西に」の情景が見られのは

     満月の前後だ。月が出てからわずかなに時間

     (10分程)に、この光景が見られることになる

      ところが、この「前後」や「ほど」が厄介だ。
           ◇
           ◇
           ◇
     日の入りの時刻は1分程度遅れていくが、月
    の出る時刻は一日に1時間近く遅れていくから。菜の花、月、日、揃ったのを見るには相当の準備が必要だ。
           ◇
     もっと偶然性に迫られるのは、「天候」だ。それが究極の美を呼んでいるようで、現実的だ。
     そんな偶然に出くわしてみたい。
           ◇
           ◇
     こんなことを考えた始まりは、時季的なことからか「西行の『ねがはくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ』の桜と如月の望月」の光景を思い描いたことだ。
    Posted by : 桜の好きなKOMUT | もん・さいじき | 07:19 | comments(0) | trackbacks(0) | -
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