私たちが人の死を悲しいものだと感じる最初は、肉親の死に直面した時ではないだろうか。
楽しいことも、時には何か辛いことに出合って励まされたことも、そして小さな諍いをしたこともあっただろう。思い出すその一つ一つが、彼らの血を受け継いだという事実以上のものとして、その悲しみを呼ぶのだろう。
そういう場面を綴った「はず」のエッセーを
目にした。さくらももこ著『もものかんづめ』
の「メルヘン爺」だ。
祖父が死んだのは私が高二の時である。
祖父は全くろくでもないジジィであった。
ズルくてイジワルで怠け者で、嫁イビリは
するし、母も私も姉も散々な目に遭った。
そんな祖父のXデーは、五月の爽やかな土曜の夜に突然訪れた。
夜中十二時頃、祖母が「ちょっと来とくんな、ジィさんが息してない
よ」と台所から呼んでいる。私と父と母はビックリして祖父の部屋に行っ
た。なるほど、祖父は息をしておらず、あんぐり口を開けたまま動かな
かった。あまりのバカ面に、私も父も母も、力が抜けたままなんとなく
笑った。
まもなく医者が来て、祖父の屍をひと目見るなり「これは大往生です
ね」と言った。死因は幸福の条件の中でも最も大切な要素のひとつであ
る”老衰”であった。
夜中三時頃、続々と親戚が集まってきた。こんな大騒ぎにもかかわ
らず、姉は自室で熟睡している事を思い出したので、私は慌てて起こ
しに行った。
「ジィさんが死んだよ」と私が言ったとたん、姉はバッタのように
飛び起きた。「うそっ」と言いつつ、その目は期待と興奮で光輝いて
いた。私は姉の期待をますます高める効果を狙い、「いい? ジィさん
の死に顔は、それはそれは面白いよ。口をパカッと開けちゃってさ、
ムンクの叫びだよあれは。でもね、決して笑っちゃダメだよ、なんつっ
たって死んだんだからね、どんなに可笑しくても笑っちゃダメ」とし
つこく忠告した。
姉は恐る恐る祖父の部屋のドアを開け、祖父の顔をチラリと見るな
り転がるようにして台所の隅でうずくまり、コオロギのように笑い始
めた。死に損ないのゴキブリのような姉を台所に残し、私は祖父の部
屋へ観察に行った。誰も泣いている人はいない。ここまで惜しまれず
に死ねるというのも、なかなかどうしてできない事である。
「ジィさんの顔、口を閉じてやらなきゃ、まずい
なァ」と誰かが言った。私は、そのままでも面白い
から問題ないと思ったのだが、そういうわけにもい
かないらしい。
「白いさらしの布で、ジィさんの頭からアゴにか
けて巻きたいのだが、布はあるか」と親類の男が尋
ねるので、母と祖母は必死で探したのだが見つから
なかった。深夜なので買いにも行けず、モタモタし
ているうちに死後硬直が始まってしまいそうだったので、やむをえ
ずありあわせの手ぬぐいで代用する事になった。
この手ぬぐい、町内の盆踊り大会で配られた物であり、豆しぼりに
『祭』と赤い字で印刷されていた。
ジィさんは、祭の豆しぼりでほっかむりされ、めでたいんだかめで
たくないんだか、さっぱりわからぬいでたちで、おとなしく安置され
ていた。祖母は、「ジィさんは、いつでも祭だよ」と力なく呟いた。
私が姉に「ジィさんのくちびるから、祭ばやしが聴こえるねェ」と言っ
たら、彼女はまた台所のゴキブリになってしまった。
体をS字にくねらせて、頬に手を重ねるジジィの姿は、ちょうど夢
見るメルヘン少女のようであった。
ジィさんの戒名の称号は居士であった。死ぬと無条件に仏の弟子に
なれるというこの世のシステムには改めて驚かされる。もしジィさん
が本当に仏の弟子になってしまったら、インチキはするは酒は飲むわ
で一日で破門であろう。
それなのに”居士”だ。私が、「立派な戒名もらってヨカッタねえ」
と母に言うと、彼女は、「あたしゃ、生きているうちにいい目に逢え
りゃ、居士でもドジでもなんでもいいよ」と言いながら,葬式まんじゅ
うをパクパク食べ始めた。位牌が少し傾いたような気がした。
こんなに長く引用することもないんだが、あんまり酷い書き方な
ので、誰かに、誰にでも見て欲しいと思って、そうしたのだ。(8月
31日弊欄でさくらももこさんのことを賞賛したが、舌が乾かないう
ちに取り消しをさせて貰わざるを得ない。)
祖父の死を、こんなに酷い書き方をするには耐えられない。多少
の虚構があるにしても、静かには読めない。
私に人の死、命の尊さを教えたのは、曾祖母の死・祖父母の死
であり、それよりずっと後の両親の死は、もっと辛かった。
これは私だけではなく、ほとんどの人がそうであると思っている。
小さい子どもを教える立場にあって、皮肉にも肉親の死が命の
大切さを理解する最大の機会であると思ってきた。今そうでなく
ても、そういう場に遭遇したら、その子(人)は必ず分かるだろう
と、無理に説明など要しないとしてきた。今もなお、そう確信し
ている。